top of page

ヨハン・アダム・ヒラー(編)

「プロイセン王室室内音楽家 フランツ・ベンダ氏の経歴」(1766年)

翻訳:田中伸明

 フランツ・ベンダ氏は1709年11月25日[1]、ボヘミアのアルト・ベナートキ[2]に生まれた。彼の父、ハンス・ゲオルク・ベンダは亜麻布織工ギルドの組合長であったが、音楽に不案内というわけではなく、ハックブレット[3]、オーボエ、シャルモーを演奏した。母はドロテア・ベンダといい、ブリクシという名の学校長の娘であった。

 7歳ぐらいの頃、フランツ・ベンダ氏はノイ・ベナートキのカントルのもとで歌を学んだ。そのカントルはアレクシウスといい、悪くない作曲家、良いオルガニストであって、バスを歌っていた。

 9歳のとき、フランツ・ベンダ氏は彼の従兄弟であるブリクシ氏を通じてプラハに行き、ベネディクト会の聖ニコライ教会で、ソプラノ歌手として雇われることになった。そのブリクシ氏はベンダの母方の祖父の兄弟の息子であり、当時の優れた教会作曲家であった[4]。ベンダ氏は短期間で歌唱を向上させ、一年の滞在の後には、全てのプラハのソプラノ歌手たちから抜きん出た存在となった。

 ある学生が、当時まだカストラートがおらず、カペルクナーベンと呼ばれた〔声変わり前の男子〕が高い声域を担当していた、ドレスデンの宮廷礼拝堂での教会音楽のために、プラハでもっとも優れたソプラノ歌手を連れてくるという依頼を受けた[5]。そこでその学生は当然のごとくベンダ氏を選んだのだが、彼との交渉は気づかれないように密かに行われた。それにも関わらず神父たちは、何か勘づいたようであった。彼らはベンダ氏からオーバーを取り上げ[6]、外出に際してベストの他には何も身に付けることを許さなかった。そのころ彼が通っていたイエズス会のラテン語学校でも、ベストの他にはコートだけを着て外出することが許されていたのだった。最終的にはしかし、その学生の絶え間ない説得にベンダ氏は根負けしてしまった。金銭的な欠乏ゆえに、彼は教科書を売りに出し、オーバーを羽織ることなく、その学生とともに密かに〔プラハを〕脱出して、ドレスデンへと向かった。そこで彼は良い待遇を受け、すぐに良い身なりをさせてもらった。半年ほど後、ベンダ氏をボヘミアへ帰りたいという気持ちが襲った。〔ドレスデンの人々は〕進んで彼のことを帰そうとはしなかったので、そのことはベンダ氏にあるぞんざいな決断をさせることとなった。彼はエルベ川をロイトメーリッツ[7]の方へと向かう船乗りを雇って、密かに故郷へと向かった。ピルナで一泊して翌朝、彼らは更に旅をつづけようとしたが、ベンダ氏は〔そのとき〕大きな驚きに襲われた。〔なぜなら〕ドレスデンから2人の人物が追跡してきて彼の前に現れ、ベンダ氏をすぐに力づくでドレスデンへと連れ戻そうとしていたからである。しかしながら水上の旅行はベンダ氏にとってあまり慣れたものではなった上に、その前の晩がとても寒かったこともあり、彼は高い声が出なくなってしまっていた。そういうわけで、ドレスデンで彼の帰郷を許すという決定が直ちになされるのに、もはや何の困難もなくなっていた。

 ベンダ氏の両親は、彼の帰還をとても友好的に受け入れたのであったが、すぐに彼が今後何をするべきなのかということについて、気を揉みはじめた。教会で始まった復活祭に少し顔を出した際、彼の父親の心に最初に浮かんだことは、息子を元気づけようと、アルトを歌うことが出来るか尋ねてみることであった。彼は思いきって、歌ってみることにした。はじめのうち高い声はあまり響かなかったが、すぐに良い調子になり、ベンダ氏はその日の午後にはすでに以前の歌い方を取り戻してアルトを歌い、喝采を受けていた。

 今やベンダ氏はアルトの声〔域〕を取り戻したので、彼はすぐにまたプラハへと赴いた。そこの旧市街にあったイエズス会の学校で歌を聴いてもらい、既に6人のアルトの歌手がいたにも関わらず、彼は採用してもらえることになった。彼のよい歌唱と、ドレスデンでカペルクナーベンであったという2つの事実は、〔採用に際して〕大変よく作用したのであった。その頃、つまり1723年の7月に、ボヘミア王カール6世[8]の戴冠式がプラハで行われ、一風変わったオペラ《コンスタンツァとフォルテッツァ》が上演された。そのオペラは有名な〔神聖ローマ〕皇帝の宮廷楽長であったヨハン・ヨーゼフ・フックス氏[9]が作曲を行い、野外で可能な限りの豪華さをもって上演されたのであった。この驚くべきオペラに関する短い報告は、マールプルク氏によって発行されている『音楽の受容に関する歴史的・批判的報告』の第1巻、216ページで読むことが出来る[10]。我らがベンダ氏は、合唱隊の一員として歌っていた。そのオペラに出演していたすばらしい歌手たちの歌唱を聴くことによってベンダ氏は、自ら〔の音楽〕を確立〔するために重要な〕多くの利益を得ることが出来た。とりわけ、ガエタノ・オルシーニの歌唱は、彼を涙させるほど感動させた。上述のことは、〔カール・ハインリヒ・〕グラウン氏と〔ヨハン・ヨアヒム・〕クヴァンツ氏もまた、言っていることである。ガエタノはこのように、素晴らしい歌い手のひとりであったことに間違いはなく、そのことに疑いをもつ者はいない。

 このオペラの後には、いまは皇帝の庇護のもとにあるイエズス会の神父たちと、ボヘミアの最高位の若い貴族たちとによって、音楽もついたラテン語の喜劇[11]が上演された。この音楽は、後にポーランド王室教会作曲家として著名になるヨハン・ディスマス・ゼレンカ氏[12]が作曲した。この劇でベンダ氏と、〔ドレスデンの〕聖十字架教会からやってきたもう1人のディスカント歌手が、それぞれ3曲のアリアを歌った。この2人のほかにも、イタリア人のバス歌手が歌唱に参加した。

 〔このときに出会った〕イエズス会の神父たちによって、ベンダ氏は〔ドレスデンの〕聖十字架教会で〔歌手として〕職務に就いた。ここで彼は、作曲をしてみたいという欲望にかられたので、2曲のサルヴェ・レギナを作曲した。1つは〔歌唱声部の他には〕オルガンのみを伴って、もう一方は〔歌唱・通奏低音声部の他、更に〕2声のヴァイオリン声部も伴っていた。〔このサルヴェ・レギナについて〕彼は私にかつて、次のように言ったことがある。「音楽の原則を考慮に入れながらも、それらの作品をどのように完成させることが出来るのか、天は全てご存知だったのです[13]。」 彼はこのように回想したが、彼の初めての作曲であるその作品の歌唱声部には、多くのなすべきことがあてがわれていたので、神父の命令によってしばしば少年合唱隊は、それらを歌わなければならなかった[14]。その後ベンダ氏はついに、〔声変わりによって〕アルトの声域を失い、彼は再びベナートキの両親の元へと戻った。

 

 歌うことによっては何の機会も見出せそうになく、またベンダ氏は両親に負担を負わせたくなかったので、彼はよりいっそうの真剣さをもって器楽の勉強をした。彼は既にヴァイオリンを弾き始めていたが、最初にヴァイオリンを彼に教えた人物が誰であったかということについて、彼はもう覚えていない。だがそれは、彼がまだかなり幼い頃になされたに違いない。というのも、彼はドレスデンでカペルクナーベンによる〔器楽の〕演奏会の際にはヴィオラを弾き、またヴァイオリンでヴィヴァルディの協奏曲を練習していたからである。

 しかしながら、残念なことにベンダ氏には器楽で稼いでいく以外に道が残されていなかったので、舞曲の伴奏をすることを決心しなければならなかった[15]。彼はそこで、やかましいユダヤ人の町楽師たちから構成されている演奏団組織に入った。そこには、年老いた盲目のレーベルという名のユダヤ人がいて、彼独自の流儀でヴァイオリンを大変巧みに演奏した。彼は自分の楽器から、卓越した音を出した。確かによく出来た作品を彼は自ら考案し、高音域の3点音に至るまで[16]、確実な明快さをもって舞曲を演奏した。この男はベンダ氏にひそかな嫉妬心を引き起こさせたので、彼は自分のヴァイオリンもまたよく鳴るようにするために〔それまでより〕更に二倍努力したのであった。〔レーベルのヴァイオリン演奏は〕、簡単ではない舞踏の伴奏をする時も、他の作品の演奏と同じく、拍節が緩むことが決してなかった。ベンダ氏はその盲目の男性に感謝していると、率直に断言した。何故なら彼は、〔レーベルがいたことによって〕ヴァイオリンでよい音を自在に奏でるための努力をしたからである。何とレーベル氏は幸運であったことだろう!何故なら彼は、そのような努力をしなくて良かったのだから。

 だが、ベンダ氏はすぐに、恥ずかしいことだと思いながらも舞曲の伴奏〔活動〕をはじめた。〔ところで〕彼の故郷にはケーキ職人がいなかった。その仕事はボヘミアで数少ない儲かる職業の一つであったので、彼らの両親はベンダ氏にその手仕事を習わせ、街に定住させるということを目論んだ。そうすることによって、ベンダ氏に好意を抱いていた市長の娘と結婚できるに違いないと考えたのである。しかし、ベナートキを治めていたクライナウ伯爵はこのことを快く思わなかった。彼はむしろ、音楽の道にとどまるようベンダ氏を勇気づけた。彼はベンダ氏に12ターラーを与えて、コニチェクという名のロプコヴィツ侯爵のヴァイオリン奏者であった人物のもとでヴァイオリンを学ぶために、再びプラハに赴くよう助言した。ベンダ氏はその良い忠告に従い、またプラハへとやってきた。〔12ターラーという〕報酬のために、彼はすぐにクライナウ伯爵の考えに従ったのである。彼は年老いた未亡人の屋根裏部屋に下宿した。ベンダ氏のことをしばしば訪ねた両親は彼に、毎度パンやチーズ、バター、冷肉料理などを差し入れた。〔一方で〕温かい食事は、当時彼はほとんど味わうことが出来なかった。音楽に対する気持ちはしかし、日増しに強くなっていった。先生〈コニチェク〉がレッスンの時刻として指定した朝の6時に、彼は先生のもとへ到着していなければならなかったので、とても早く起床した。1日の残りの時間は、ヴァイオリンの演奏と写譜とを交互にして過ごした。ヴァイオリン協奏曲を1日で写し終えてしまうということも珍しくなかった。夜の11時より前に、彼が床につくことはほとんどなかった。

 こうして10週間過ぎた後、当時の彼の先生〈コニチェク〉は彼にこういった。「これ以上長く留めてお金をもらうことは出来ない。君は今後、自分自身で〔ヴァイオリンの力を〕確かなものとすることが出来るだろう。私が求めることは、今後も勤勉であり続けて欲しいということだけだ。私の手助けは、もうこれ以上必要ないだろう。」ベンダ氏はそういうわけでまた、両親のいるベナートキへと戻った。彼はそこでしばしば教会や、クライナウ伯爵のコンサートで演奏するのを常とした。彼は伯爵の息子たちとかなり頻繁に交流していた。そうした中で、喜劇が上演されるということがしばしばあって、ベンダ氏はそうした時にはだいたい、女性の役を務めなければならなかった。そうこうするうちに、〔神聖ローマ〕帝国枢密顧問官のオステン伯爵が、ベナートキのクライナウ伯爵を訪問した。クライナウ伯爵はベンダ氏を、時を見て近侍として雇おうと企んでいたのだが、彼を音楽家としてもっとすぐれた人材にしたいと考えていたために、彼をオステン伯爵に紹介し、しばらくの間ウィーンへ連れて行き、どこか有力な家柄に推薦してもらえるよう、お願いした。こうして〔ベンダ氏は〕旅行に行くことになった。別れに際し、ベンダ氏はよき父から、その財力の点から払えなかった莫大な旅費の代わりに、次のような言葉を贈られた。「飲酒、女遊び、ゲームには十分用心しなさい。そして、キリスト教徒としての義務を勤勉に果たしなさい[17]。そうすれば、お前は正しく確かな道を歩んでいくことが出来るだろう。」ベンダ氏はこの父の言葉について、折に触れて何度も振り返ることになったと正直に告白している。このときベンダ氏はまだ、18歳になっていなかった。

 ウィーンでオステン伯爵は、ベンダ氏を今日に至るまで存命であるウーレフェルト伯爵に推薦した。そこでベンダ氏は当時、有名な〔神聖ローマ帝国〕帝室チェロ奏者であったフランチスケッロから、チェロの指導をしてもらった。ベンダ氏はそういうわけで、この偉大なヴィルトゥオーゾの演奏を何度か聴いただけでなく、彼と一緒にトリオを演奏するという機会も得たのであった。

 ベンダ氏の従兄弟でツィンマーマンという名の、最も優れたヴァルトホルン奏者の1人は当時、モンテククリ伯爵元帥に仕えていた。そのツィンマーマンはベンダ氏を彼の主人に紹介し、ウーレフェルト伯爵のもとでのこれまでの仕事をやめて、その元帥のもとで働くようベンダ氏を説得した。ベンダ氏はそのようにして、それまでよりいくらか多い給料を得ることが出来るようになったが、そこには半年ほどしか留まらなかった。そこで、後に伯爵となった良心的なアンドラー男爵は、ジーベンブリュゲンのヘルマンシュタット[18]に共に行けば、元帥のところでもらっていたよりも更に高額な給料を支払うとベンダ氏を説得した。しかしベンダ氏はそこにも、1年より長く留まることは出来なかった。ルネヴィルのマルキーと共に、ウィーンに戻らなければならなかったからである。ジーベンブリュゲンで彼は、現在ツェルプスト宮廷のコンサートマスターを務めているカール・ヘック氏[19]と友人になった。この友情は、現在にいたるまで続いているものである。ウィーンへの帰路の途中彼は、現在はプファルツ選帝候の宮廷〔でヴァイオリン奏者を〕務めているものの、かつては〔ベンダ氏と同じく〕プロイセン王室室内音楽家であったツァールト氏[20]と知り合いになった。〔さて〕ベンダ氏はマルキーのもとで、ツァールト氏はパハタ伯爵のもとで仕事をしていたが、それらの仕事はあまり満足できるものではなかった。〔そこで〕彼らは話し合って、こっそり〔ウィーンから〕共に逃げ出すことにした。つづけて、ヘック氏が彼の同僚で今は亡きヴァイドナー氏と共にウィーンに到着したので、彼らも共に〔旅へ〕行きたがった。そして、ベンダ氏とツァールト氏は先に徒歩でブレスラウ[21]へと向かい、他の〔2人、ヘック氏とヴァイドナー氏〕は郵便馬車で後を追いかけるということが決まった。ベンダ氏は周りからよく認識されないように、長く白いマントを羽織った。ベンダ氏のヴァイオリン、ツァールト氏のフルート以外に彼らは、わずかな楽譜を携えることが出来ただけであった。幸運なことに彼らは無事にブレスラウに到着した。アム・ザンデ教会で彼らは演奏を聴いてもらい、神父たちは彼らを雇い入れたいと考えた。ウィーンを離れても、ベンダ氏はテノールの高声を歌い、当地の最高のヴァイオリン奏者の1人であった老ティマーのことを思い出した。

 ヘック氏〔とヴァイドナー氏を乗せた〕郵便馬車が数日後にブレスラウに到着して、当地での短い滞在を経た後に、彼らは4人そろって、幾人かの運送業者と共にワルシャワへと旅をつづけた。ワルシャワまでまだ数マイルあるところで、あまりの暑さのためにベンダ氏たちは、運送業者の人々によって道に置き去りにされてしまったので、彼らはしげみの中にあって、主要な通りからそう遠くはないが、最も長くかかる道を更に進んでいくうちに[22]、大きなリュックサックを見つけた。彼らは〔持ち主を見つけようと〕幾度か叫んだが〔見つからないので〕、それを持っていくことにした。彼らは立ち寄った村々全てで、更にはワルシャワでも人々に問い合わせたが、そのリュックサックを自分のものであると名乗り出る人物はいなかった。結局、所有者を見つけることは出来なかったのである。彼らはそこで、そのリュックサックを自分たちのものと見なして中を開けて、入っていたものを分け合った。その中から発見したもののほとんどは、彼らが必要としていたものばかりであった。長く白いコートを恥ずかしく思っていたベンダ氏は、まるで彼のために作られたかのような、よく似合う布製の衣服を手に入れた。〔さて〕彼らはワルシャワで、カシミール宮殿と呼ばれる50年以上誰も住んでいない場所に、4人一緒に小さな部屋をとって、〔そこで生活をはじめた〕。その近くに住んでいたあるドイツ人の画家で、息子がヴァイオリンを弾いていた人物が、彼らにそこを斡旋してくれたのである。彼らが日曜日に演奏していた修道院は、彼らに食料品を与えてくれ、件のドイツ人画家の妻がそれを料理してくれた。そのお城での活動は、カラスの鳴き声のように〔不気味なものだった〕。ベンダ氏たちが音楽を演奏していると、そこを通り過ぎる人たちは、彼らが聞いたものは幽霊の仕業によるものに違いないと信じ込んでしまった[23]

 

 

 ベンダ氏が再びドレスデンに戻った後、彼はその時ルピーンにいたクヴァンツ氏から、かつてのプロイセン皇太子にして現在の国王陛下〔フリードリヒ〕[24]の〔宮廷楽団で奏者の〕地位を提供される旨が書かれた手紙を受け取った。彼はその申し出を受け入れ、ツェルプストを経由してルピーンへと向かった。ツェルプストでベンダ氏は、当地の王侯貴族たちによって演奏を聞かれるという誉れを得た。そのことによって彼は〔ツェルプストで〕、コンサートマスターの地位を打診されたのだが、ベンダ氏は〔プロイセン皇太子からの招聘がある故に〕その提案を受け入れることが出来なかったので、彼は古くからの友人であるヘック氏に、〔現在いる〕ポーランドから出てきて、その地位を〔ヘック氏に〕譲ることを提案する手紙を書き送った。この行為は、このツェルプストのコンサートマスターの地位〔そのもの〕にも大きな名誉を授けることになった[25]

 1733年4月12日[26]、ベンダ氏はプロイセン皇太子〔の宮廷楽団で〕職務を開始した。最初にルピーンに到着した際、彼は既に職務に就いていた、現在の〔プロイセン〕王室〔宮廷楽団〕のコンサートマスター、ヨハン・ゴットリープ・グラウン氏に迎え入れられた。ベンダ氏はそれまで、とりわけアダージョ〔の演奏〕において、グラウン氏以上に満足できるヴァイオリン奏者〔の演奏〕を聞いたことがなかった。グラウン氏はそこで親切にも、とりわけアダージョを中心として3〜4つのヴァイオリン・ソナタをベンダ氏と共に見てくれ、〔ベンダ氏は、グラウン氏が〕どのように演奏しているのかということを体得した。ベンダ氏はこのときから、自分自身でこの楽器のためにソロ・ソナタ[27]を作曲することをはじめた。特にバス声部〔の作曲〕について、グラウン氏の施す修正は、ベンダ氏にとって多いに役立った。楽長カール・ハインリヒ・グラウン氏が皇太子の〔宮廷楽団で〕職務に就いた後、彼はベンダ氏とともに住み、〔このグラウン氏の指導のもと〕ベンダ氏はコラールを〔和声の学習のために〕書いた。そして彼はついに、1つのシンフォニア、そしてその後は協奏曲を作曲するまでになった。〔また〕作曲に関する全般的な基礎に関する更なるレッスンを、彼はクヴァンツ氏から受けた。

 1733年6月、皇太子は結婚し、床入りの儀が執り行われた。この祝いの席には、今は亡きバイロイト選帝侯妃〔にして皇太子の姉であった〕ヴィルヘルミーネも来ていた。彼女は毎日、ベンダ氏の〔ヴァイオリン〕演奏のみならず歌唱も聞き、皇太子に、〔ベンダ氏に〕休暇を与えたいからといって、バイロイトに数週間〔ベンダ氏を〕旅行させて欲しいと頼んだ。ベンダ氏はこうして、1734年5月に、バイロイトへ旅行した。7週間の滞在中にベンダ氏は、妃殿下に歌唱をお教えすると言う恩恵に浴した。バイロイトへの旅の途上では、ライプツィヒで楽長バッハ氏[28]、および彼の息子たちと知り合うという喜びを得た。帰路ではドレスデンに立ち寄り、ベンダ氏の2番目の弟であるヨハン・ベンダ〔氏〕を見つけ、ルピーンへ同行させた。そこで彼は間もなく、ヴィオラ奏者として皇太子の〔宮廷楽団に〕務めることになった。

 1734年夏、プロイセン王〔フリードリヒ・ヴィルヘルム1世〕と皇太子は軍務で、高地ライン地方に赴くことになり、皇太子はベンダ氏を連れて行きたいと思った。しかしながらバイロイト選帝侯妃が再び〔皇太子に〕同じ願いをしてきたので、ベンダ氏はまたバイロイトへ行かなければならなくなった。同行した音楽家の中には、後に楽長となった〔カール・ハインリヒ・〕グラウン氏と、当時皇太子の宮廷楽団で鍵盤奏者を務めていたシャフラート氏[29]もいた。バイロイトでベンダ氏は、グラウン氏とともにしばしば二重唱を歌った。グラウン氏はしかしながら〔当時〕、ブラウンシュヴァイク大公の宮廷で副楽長の地位にあって、ベルリンにはゲストとして訪れていたこともあり[30]、新しいオペラの上演のためにすぐにブラウンシュヴァイクへと戻っていった。ベンダ氏とシャフラート氏はしかし、皇太子が軍務の帰路バイロイトに立ち寄るまで13週間の間当地に留まった。皇太子は彼らを気にかけ、共に帰郷した。

 1738年のカーニヴァルの際、ベンダ氏はハッセ[31]のオペラ《ティート帝の慈悲》を聞くため、ドレスデンに旅行した。これは、〔ポーランド王室・ザクセン選帝侯宮廷楽団の〕コンサートマスター、ピゼンデル氏[32]との友好的な文通を通じて行われた招待であった。ポーランド王国の宮廷に、当時ロシア帝国公使として出入りしていたカイザーリンク伯爵[33]は、配下の者から、あるプロイセン〔皇太子の宮廷〕音楽家が〔ドレスデンに〕姿を現すということを聞いていた。伯爵はすぐ次の日にベンダ氏を〔邸宅に〕招待し、彼に多くの親切を示した。そしてその後にも、この伯爵はベンダ氏が常に感謝を持って追想することになる、すばらしい恩寵を示した。それというのは、伯爵の邸宅で、ベンダ氏はかの有名なポーランド王室・ザクセン選帝侯〔宮廷楽団〕のリュート奏者であったシルヴィウス・レオポルト・ヴァイス氏[34]の、真の技巧を耳にする機会を幾度か得たのである。ある日、ヴァイス氏はベンダ氏を、ピゼンデル氏と共に昼食に招待し、ベンダ氏のヴァイオリンケースを〔召使いに命じて〕密かに持ち去らせた。〔昼食後、ヴァイス氏は3人で合奏をしようと思っていたからである〕。〔さて、ヴァイス氏の企み通り〕午後に〔合奏をする運びとなり〕、ベンダ氏はソロ・ソナタを演奏し、ピゼンデル氏がヴィオラ・ポンポーサ【原注:この楽器はチェロと同様に調弦されるが、さらにもう1つの弦〔E線〕を上方に持ち、ヴィオラよりやや大きく、肩にかけるヒモで固定することにより、〔ヴァイオリン同様〕胸の前、腕の上方に構えることが出来るようになっている。今は亡きライプツィヒの楽長バッハ氏が考案した。】でそれを伴奏した。最初の演奏の後、〔ベンダ氏は〕次の演奏を求められ、その後もそういった調子で〔演奏が〕続いた。そんなわけで、ベンダ氏は彼のヴァイオリンケースに24のソロ・ソナタ〔の楽譜〕を入れていたのだが、それら全てを演奏し終えるまでこの〔3人の〕集まりは終わることがなく、〔演奏は〕深夜までつづけられた。ヴァイス氏は同じ日の午後に、8〜10曲ほどのソナタを、リュートで演奏した[35]

 1739年5月2日、ベンダ氏は若き令嬢であったエレオノーラ・ステファニ氏と最初の結婚をした。彼女の父は〔バイロイトで〕税関吏長および郵便局長を務めたが、のちに兵役でコルベルクへと赴いた。結婚式は、ルピーンで行われた。この結婚によって生まれた子供たちについて、私たちは後になって再び触れることになるだろう。

 この結婚の11ヶ月後、つまり1740年の聖木曜日に、〔ルピーンに代わって新たに〕皇太子の宮殿が置かれていたために、ベンダ氏もそこに住んでいたラインスベルク[36]で火事があり、街のほとんどが焼けてしまった。この不幸な火事によって、ベンダ氏はヴァイオリンとわずかな楽譜を除いて、ほとんど全ての財産を失ってしまった。その〔火事の〕直前に完成していた協奏曲も、一緒に焼けてしまった。ベンダ氏の記憶力はしかし、大変よかったので、彼は2日のうちに再びそれを紙に書き付けることが出来た[37]

 その後すぐ、今の国王陛下が王位におつきになった。〔宮廷〕楽団も、それに伴ってベルリンへと移った。

 1742年、ベンダ氏の俸給は王によってかなり増額された。このような俸給の引き上げは、〔ベンダ氏が〕宮廷に仕えるようになってから、何度か行われている。

 同じく1742年、プロイセン国王陛下はベンダ氏の2人の弟たちをヴァイオリン奏者として〔宮廷楽団に〕採用した。この2人のベンダ氏のうち、年長であるゲオルク・ベンダ氏は、1748年にザクセン・ゴータ国の宮廷楽長として活動をはじめ、各人よく承知の通りその楽団を、独創的でありながらも地に足のついた作曲家として、多大な名声を博しながら率いている。より年少のヨーゼフ・ベンダ氏は、今もなおプロイセン国王の〔宮廷楽団に〕、〔フランツ・ベンダ氏と〕等しく著名で、大変卓越したヴァイオリニストとして在籍している。先に私たちが言及したこの2人のベンダ氏の兄、つまりヨハン・ベンダ氏は、国王の〔宮廷楽団の〕ヴァイオリン奏者であったが、数年前にベルリンで死去した[38]

 これもまた1742年のこと、ベンダ氏の両親が国王のこの上ない慈悲による助けによって、ボヘミアからベルリンへとやってきた。ベンダ氏の両親は、ノヴァヴェースというボヘミア人たちに新たに与えられた村にベンダ氏が建てさせた新居に、暫くの間〔一緒に〕住むことになった。そして、その人生の終わりまでわずかにしか残されていなかった時間を、彼らは主にフランツ・ベンダ氏の支えによって経済的な苦労をすることなく、また愛する息子たちと共に過ごせるという大きな喜びとともに、過ごすことが出来たのだった。また1756年に、息子たちは協力して両親の金婚式を祝った。友人たちも祝宴の席に参加して共に祝い、一同は大きな喜びを味わった。

 ベンダ氏の唯一の妹であるアンナ・ハターシュ氏は、素晴らしい歌手として、夫で才能あるヴァイオリン奏者のディスマス・ハターシュ氏と共に、ザクセン・ゴータ公国の宮廷楽団に勤めている。ベンダ氏は最初の結婚で8人の子供を設け——3回の出産で双子が生まれた[39]―そのうち6人が今も存命である。1.ヴィルヘルミーネ氏。ヴァイマール公妃殿下の女官として職務についている。同じ職務に、2番目の娘であるマリア・カロリーナ氏もついている。彼女は大変よい歌唱をするだけでなく、クラヴィーア伴奏・独奏ともに悪くない才能を発揮する。3.フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ氏と4.カール・ハインリヒ・ヘルマン氏は共に、プロイセン王室〔宮廷楽団〕のヴァイオリン奏者であり、父の弟子たちとして申し分ない力量の持ち主である。5. ヘンリッテ氏と6.ユリアーネ氏は共に、時が経つとともにクラヴィーアの演奏および歌唱で、何か特別なことを成し遂げるだろうという大きな期待がかけられている[40]

 1758年8月25日ベンダ氏の最初の妻が亡くなり、彼は1761年8月13日、亡き妻の妹カロリーナ・ステファニ氏と再婚した。この結婚による子供はいない。

 

 〔さて、〕私たちは再び、フランツ・ベンダ氏の音楽についての話しに戻ることにしよう。現在のプロイセン国王〔がまだ皇太子であった頃、彼〕のもとでの職務についた最初の数年間、ベンダ氏は宮廷の室内楽でほとんど毎日のようにアリアを数曲歌わなければならなかった。だがその当時、彼は歌うとほぼ毎度の様に頭痛を覚えたので、そのうえまた、しばらくしてから今は亡き楽長グラウン氏が歌手として宮廷で職務についたこともあって[41]、ベンダ氏は公の場で歌うことを全くやめてしまった。しかしながら、歌唱芸術についての洞察を活用して、彼は歌をやめてしまった後も教えることを通して、才能ある人々に有益なことを為したのであった。彼の2番目の娘であるマリア・カロリーナ氏だけでなく、宮廷の素晴らしいソプラニスト〈カストラート〉で、ボローニャで90歳になろうとしていた著名な作曲家、ヤコブ・ペトリ【原注:彼は1683年、ヴェネツィアでオペラ《コリオラーノ》を上演し、また同じ年に、〔オスマン帝国に〕包囲されていたウィーンの街のために、テ・デウムを作曲した。すくなくとも1745年の時点ではまだ生きており、おそらく作曲もしていた。】のもとで基礎的な指導を受けたパオロ・ベデスキ氏もまた、彼が歌唱において成し遂げた最も重要な部分を、ベンダ氏の指導に負っているのである[42]

 ベンダ氏の作品は、多くの協奏曲、ソロ・ソナタ、およびシンフォニアからなる[43]

 彼がヴァイオリンで奏でる音は、この楽器で聞くことが出来るもののうちで最も美しく、最も力強く、最も純粋で、そして最も快適なものの1つである。彼は急速さや高音域、そして他のあらゆるヴァイオンの難しさに対処できる考えられうる限りの技巧を有しており、それらを適切な時に、思慮深く用いることを知っている。しかしながら、彼の天性の素質が洗練され、そして最大の成功を示したのは、その高貴な(ここで私が「高貴な」と言うのは、艶がなくて映えず、面白みのない歌唱とは全く違うものだということだ)歌唱性においてである。彼の作品もまた、その演奏と同じように、輝きと高貴な本質とが欠けることはなかったので、本質的には〔その演奏と同じ傾向を〕示している。彼の演奏同様、その作品は非常に穏やかで快適であり、ときに諧謔的なものであるが、低俗でありきたりなものでは決してなく、常に気品がある格別なもので、新しく特別な着想に基づいたものである。大人数の場合と同じく少人数の演奏において〔も示される〕彼の巧みかつ正確な〔楽団の〕先導、そしてある作曲家の考えの適切な表現〔を演奏によって示すこと〕によって、〔その演奏が〕彼と一緒に、もしくは彼のもとでなされているということが全ての人にわかる。彼らはベンダ氏に率いられた演奏をたったひとつ聞くだけであっても、楽しみを得ることが出来るだろう。

 ベンダ氏はこれまで、外国の高貴な人々にも演奏を聴いてもらう機会がたびたびあったが、そのどれ1つにおいても、盛大な ——時には並々ならぬ—— 喝采を受けないことはなかった。〔そうした人々の例として〕私たちは、既に述べたバイロイト〔選帝侯〕に加え、ブラウンシュヴァイク大公、ゴータ大公、ヴァイマール大公、〔シュヴァルツブルク・〕ルドルフシュタット〔侯爵〕、今は亡きケルン選帝侯、〔故〕リエージュ大司教、〔今は亡き〕先代のザクセン選帝侯〔フリードリヒ・クリスチャン〕、といった方々の名を挙げることが出来る。こうした方々は、時代の流行として、イタリアへ旅したことのある〔、あるいはイタリア人の〕ヴァイオリン奏者を主に〔宮廷楽団に〕登用していたので、〔そうした経験がないベンダ氏の演奏を〕深い洞察を持って聞いたのであった。そうした人々の中でも、音楽の偉大な才能の持ち主であった先代のザクセン選帝侯の妃殿下〔マリア・アントーニア・ヴァルプルギス[44]は、特にベンダ氏のことを気に入った〕。他にも、〔ベンダ氏は〕多くの他の貴族たちに演奏を聴いてもらったことがある。

 ベンダ氏はある時、彼自身そこの領主の前で演奏するつもりではなかったものの訪問することになった、ある外国の大きな宮廷で、とある身分の高いイタリア人の伯爵と出会った。その面会は、その人物の邸宅ではなく、他の貴族の邸宅で行われた。〔さて〕その伯爵は音楽の愛好家にして識者であったので、ベンダ氏に最初に次のようなことを断言した。つまり、ベンダ氏がヴァイオリン奏者であるなら、S氏の演奏を聴いたことがあるに違いない[45]、それを聞いたことがない者は、何がヴァイオリンにおける美しい表現をもたらすことになるか、知ることが出来ないだろうというのである。ベンダ氏は伯爵に、S氏の演奏を聞いたことはないが、S氏と直接交遊のある何人かの私の友人が、S氏の弓使いと私の弓使いとの間にはいくつかの類似点が見られると、お世辞には違いないが言ってくれたことがあります、と答えた。この答えは当然、伯爵には少々向こう見ずで大胆なように思えたが[46]、〔このベンダ氏の言葉は〕伯爵にベンダ氏の演奏を聞きたいと思わせた。そこで伯爵は、先にS氏について自分が言ったことを取り消すことはせずに、それが果たしてベンダ氏に当てはまるかどうかを試してみることにした。まもなく、伯爵はベンダ氏の演奏に深く心を動かされたので、彼はベンダ氏のことをその宮廷の領主へと紹介した。その領主の前で演奏を聴いてもらうという名誉は、そう簡単に得られるものではなかった。その〔イタリア人の〕伯爵は、〔ベンダ氏の演奏を更に聞きたいと思ったので、〕その領主の前でベンダ氏が何度か演奏するのを聞くまで、心からの安らぎを得ることが出来なかった。ベンダ氏の演奏はこの伯爵に、ベンダ氏の公正さを認めさせたばかりでなく、遠慮がちなところが全くないベンダ氏の演奏様式と音楽が、まことに感動的なものであるということを知らしめたのであった。この〔ベンダ氏の素晴らしい演奏は同時に〕、もしベンダ氏が今の仕事をやめて、ここで新しく仕事をすることについて乗り気になるには、並外れて有利な条件を示し、大幅な所得の増額を行わなければならないだろうということを、この伯爵にひそかに理解させることとなった。〔果たして伯爵はベンダ氏に、この提案を持ちかけてみたの〕だが、ベンダ氏はその全てを謝絶した。何故なら彼は、〔プロイセン〕王の忠実な臣下であったのみならず、ベルリンにいる親戚や友人たちを裏切るような真似をしたくはなかったからである。

 〔ある時〕ベンダ氏の最も優秀な弟子の1人が、彼の前でタルティーニ氏[47]の作品の一部を演奏し、ベンダ氏の演奏様式と作品について自由闊達に意見を交わしたが、ここで人は、この2人のヴァイオリンの巨匠〈ベンダとタルティーニ〉の功績のうち一方を知性がなく無骨なものであるというように判断しようとする人々のことを恥じ入らせることが出来る。この〔ベンダ氏の弟子がタルティーニ氏の作品を演奏した時〕、いくらその作品がよい価値を持っていたとしても、タルティーニ氏のその作品はとても不利な判断をされる運命のもとにある。〔何故なら、その人物が通じている演奏様式は、当然ながら師であるベンダ氏のものであって、タルティーニ氏のものではないからである〕。タルティーニ氏について実際に知っている人は皆、彼のことを誠実でしっかりとした人物として報告しており、反対ではあり得ないのである。この他の証言などを引き合いに出す必要はもうないだろう。つまり、ベンダ氏、あるいはベンダ氏のよい弟子たちの作品なり演奏なりは、彼ら自身によってなされた時、最良のものと判断されるのである[48]。〔同じことが、タルティーニ氏に関しても言えるだろう〕。

 ベンダ氏は、プロイセン王室〔宮廷楽団〕で職務についているときから、多くの優秀なヴァイオリン奏者たちを教えており、彼の教えはそうした者たち、および彼らの音楽〔上の表現〕に大きな名誉を与えている。有名な人の例として、私たちは次のような人たちをあげることが出来る。

1.彼の一番下の弟で、プロイセン王室〔宮廷楽団〕のヴァイオリン奏者のヨーゼフ・ベンダ氏[49]

2.彼の、つまりフランツ・ベンダ氏の2人の息子たちで、両者とも〔やはり〕プロイセン王室〔宮廷楽団〕のヴァイオリン奏者であるフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ氏と、カール・ハインリヒ・ヘルマン氏[50]

3.バイロイト選帝侯殿下の〔宮廷楽団で〕作曲家、そしてヴァイオリン奏者を務めるケルビッツ氏。

4.シュヴァルツブルク・ルドルフシュタット侯国〔の宮廷楽団で〕第1ヴァイオリニストを務める、ヨハン・アウグスト・ボディヌス氏。

5.プロイセン国王の弟のハインリヒ王子の〔宮廷楽団で〕仕えたが、最も活躍が華やかであった時に亡くなってしまった、〔故〕ルートヴィヒ・ピッチャー氏。

6.現在クールラント大公殿下に仕えるN.N.ヴァイヒトナー氏[51]

7.ブラウンシュヴァイク大公の王子ヴィルヘルム殿下に仕えるC.W.ラムニッツ氏。

8.アンハルト・デッサウ侯国〔宮廷楽団〕のヴァイオリン奏者、N.N.ルスト氏[52]

など、他多数である。

 

ベンダ氏は、34年目になろうとしているプロイセン国王〔フリードリヒ〕への奉職を通して、これまでに40,000曲の〔フルート〕協奏曲で[53]、国王陛下を伴奏するという名誉に与っている。

 

フランツ・ベンダ氏の経歴への追記【原注:誤って抜け落ちてしまい、24号と25号の間に挿入されるべきものである。】

 

 それから幾週も経たないうちに、シャマウスキ家の出であるズハクツェヴィスキ法官が彼らの演奏を聴きたいと思っていたが、最終的に4人全員を雇い入れることにして、ワルシャワから彼の土地へと連れて行った。この人物は大変な音楽愛好家で、音楽家たちには勤勉に練習するよう求めた。彼がいつになく上機嫌であったあるとき、ベンダ氏はその日の午後に18曲〔もの〕協奏曲を演奏しなければならなかった。その人物〔のもとで働く〕音楽家の数は、最終的に9人にまでなり、ポーランドで最も優れた宮廷楽団の一つとなった。ポーランドでは、たとえ4人か5人ほどしか〔楽団に〕音楽家がいなくても、そのうち一人は宮廷楽長の称号を帯びなければならないということが習慣であったので、その称号はその法官によって、ベンダ氏にいわば押し付けられるような〔形で与えられた〕。2年半の間、ベンダ氏はその職務に耐えた。その法官の許ではしっかりと働いていながらも、彼にはドイツに再び行きたいという憧れがあった。

 〔そんな時、〕ポーランド王国の宮廷楽団(これは〔ポーランド〕国王が、ザクセン〔選帝侯国〕宮廷楽団とはまた別に、ポーランドで雇っていた音楽家たちの集まりである)にいたヴィリクスという名のヴァイオリニストが死去した。当時宮廷楽団の監督であったシュルツェ氏は、ベンダ氏にそのヴィリクスのポストを〔引き継がないかと〕提案した。ベンダ氏は、主人の許しを得てワルシャワで〔採用のための〕試験を受け、その〔ヴィクリスの〕ポストを引き継ぐことにした。彼はまだ3ヶ月ほどその人物のもとでの〔職務に〕耐えなければならず、また、〔彼から〕もっと長くいてくれるよう度重なる申し出を受けた。そうした要求をベンダ氏はしかし、すべて断った。ドイツに再び行きたいという希望こそ、何にも増して先立っていたのである。

 その後まもなく、〔ポーランド〕国王アウグスト2世[54]が亡くなった。ベンダ氏は、音楽監督であったシュルツェが率いたブリュール〔伯爵の従者の〕一行の者たちとともに、ドレスデンへ向かった。その後すぐにベンダ氏は、彼から5年に渡って何の連絡も受けていなかった両親たちに再び会うという喜びを得た。彼らは、ベンダ氏がドレスデンに到着したという知らせを受け取って、尋ねてきたのである。その後彼は親戚の者たち、とりわけ上で触れたブリクシ氏を尋ねるためにプラハへ旅行した。そこで彼が出会った、まだ1歳の子供でゆりかごの中にいたブリクシ氏の子供は、現在作曲家及びオルガニストとして、プラハの中央教会で音楽の指揮をしている。

 ベンダ氏が再びドレスデンに戻った後〔以下、25号へと続く〕…

  〔訂正及び追記[55]〕200頁11行目にあるAusführung〔演奏〕は、〔正しくは〕Anführung〔先導〕である。202頁4行目のヨハン・クリストフ・ケルビッツ氏は〔誤ってキュルビッツと書かれているが〕、185頁〔のバイロイト選帝侯の宮廷楽団員紹介〕で言及されている人物と同じである。同13行目のロムニッツは、〔正しくは〕ラムニッツと読まれるべきであり、更にその先に以下の様に付け加えられるべきである。

8.ハインリヒ王子殿下、つまり国王〔フリードリヒ〕の弟に仕えるヨハン・ヴィルヘルム・マッティース氏。

 

 

[1] 自伝でもこの日付が誕生日と書かれているが(Franz Lorenz (Hrsg.), „Autobiographie Franz Bendas“, in ders: Franz Benda und Seine Nachkommen, Berlin 1967, S.138)、残された記録によるとベンダが洗礼を受けた日は、1709年11月22日である(Douglas A. Lee, A Musician at Court: An Autobiography of Franz Benda, Michigan 1998, S.3)。

[2] 現在のチェコ共和国、ベナートキ・ナト・イゼロウ。プラハの北東約30kmに位置する。

[3] 英語名はダルシマー。ハンガリーの民族楽器として知られるツィンバロンとほぼ同じものを指すと考えて良いだろう(Lee, An Autobiography, S.4)。

[4] 実際にはこの人物は、ベンダ氏の叔父、つまりベンダの母の弟にあたるシモン・ブリクシであった(Lee, An Autobiography, S.5)。

[5] この学生の名はロシャーであったと、ベンダは自伝に記している(Lorenz, „Autobiographie“, S.139)。

[6] 暗がりに乗じて逃亡するのを阻止するための措置ということだろう。

[7] 現在のチェコ、リトムニェジツェ。プラハの北北西約60kmに位置する。

[8] 神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740、在位1711-)で、マリア・テレジアの父。

[9] Johann Joseph Fux (1660-1741)  1715年より、イタリア人が登用されることが慣例であったウィーンの宮廷楽団で楽長を務め、世俗作品から宗教作品まで非常に幅広く作曲した。当該のオペラは5万グルテンの大金を投じて、4000人の人員を動員して上演された当時としても比類のない規模のものであったが、クヴァンツの報告によれば、そのオペラは「劇場的であるというよりは教会風で」あり、上演にはクヴァンツの他、カール・ハインリヒ・グラウン、シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(註34を見よ)も参加していた。

[10] Friedrich Wilhelm Marpurg, Historische=Kritische Beyträge zur Aufnahme der Musik, erster Band, Berlin 1754, S.162. また、ベンダの自伝は本来、この雑誌に掲載することを意図して執筆されたものであった(Lorenz, „Autobiographie“, S.158)。 

[11] メロドラマ《平和のオリーブと勝利のヤシの木もとでSub olea pacis et palma virtutis》ZWV175のこと。

[12] Jan Dismas Zelenka (1679-1745) ボヘミア生まれで、ポーランド王室・ザクセン選帝侯国の宮廷作曲家を務めた。

[13] 天の助けがあったからこそ作曲が可能になったというニュアンスを読み取ることが出来る。

[14] 作品は神父も認めるほど評価されており、前述のベンダの謙遜は適切ではないという意図を感じさせる。

[15] ここの文章には直接書かれていないが、これは居酒屋などで舞曲の伴奏をするという意味で、ベンダ自身は嫌で仕方がないと感じていたことが次段落冒頭の記述でわかる。

[16] c3-h3の音域を指す。f3以降では第5ポジション以上が必要となり、必然的に綺麗な音を出すことも難しくなる。

[17] ベンダは1730年にカトリックからプロテスタントに改宗したと考えられており、自伝で彼は自身が改宗に至った理由や宗教観などについてかなりの紙幅を割いて述べているが(Lorenz, „Autobiographie“, S.154-158)、ヒラーによって書かれたこの経歴にはそうした記述は一切見られない。

[18] 現在のルーマニア、シビウ。

[19] Carl Höckh (1707-1773)  1733年終わりか1734年始めに、ツェルプスト宮廷のコンサートマスターにベンダの推薦を通して招聘された。この経緯については本文x頁で述べられている。

[20] Georg Czarth(1708-1780) ベンダと同様、プロイセン王フリードリヒにその皇太子時代から仕えたが、1758年にプファルツ選帝侯国のマンハイム宮廷楽団に転じた。

[21] 現在のポーランド、ヴロツワフ。

[22] 少なくともベンダとツァールトは逃亡中の身の上であるから、主要な幹線道路を堂々と歩くわけにはいかなかった、ということだろう。

[23] ここに本来続くべき記述は編集上の誤りによって抜け落ちてしまい、翌年2月17日に発行された同誌第34号上で補われている。本稿でも、26号の翻訳の後にその翻訳を続ける形をとった。

[24] 後のプロイセン王、フリードリヒ2世(1712-1786、在位1740-)。

[25] 註19を参照。

[26] 原文には1723年とあるが、明らかな誤り。

[27] 原文にはSoloとある。この単語で当時指し示されたものは、無伴奏の作品ではなく、通奏低音を伴ったひとつの独奏楽器のための作品であった。ソナタの意味も含意されていることがほとんどであるため、ソロ・ソナタと訳した。たとえば、クヴァンツの『フルート奏法試論』におけるSoloの説明を見れば、そのことは容易に理解される(Vgl. Johann Joachim Quantz, Versuch einer Anweisung die Flöte Traversiere zu spielen, Berlin 1752, S.303-305)。

[28] ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)のこと。

[29] Christoph Schaffrath(1709-1763)フリードリヒの宮廷で鍵盤楽器奏者を務めた後、1745年前後からはフリードリヒの妹のアンナ・アマーリアの宮廷で鍵盤楽器奏者を務めるようになった。鍵盤楽器のための作品の他、管弦楽のための序曲とシンフォニアも多く作曲している。

[30] グラウンが正式にフリードリヒの宮廷で職務に就くのは、1735年からのことである。なお、ここでいうベルリンとは、プロイセン王国、あるいは政府のことを指していると考えるべきだろう。皇太子の宮廷がおかれていたルピーンと読み替えても差し支えない。

[31] ヨハン・アドルフ・ハッセのこと。

[32] Johann Georg Pisendel (1688-1755) 18世紀前半を代表するドイツのヴァイオリニスト。1716年、当時の代表的ヴァイオリニストであったアントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)からヴェネツィアで直接教えを受け、多くのヴィヴァルディ作品の筆写譜をドレスデンへ持ち帰った他、グラウンやベンダなど同時代人による作品を多く筆写した。

[33] この人物は、ヨハン・セバスチャン・バッハの《ゴールドベルク変奏曲》に関する逸話でとりわけ知られている人物である。

[34] Sylvius Leopold Weiß(1687-1750) 1717年頃からドレスデンの宮廷楽団で仕事を始め、優れたリュート奏者として名声を博し、多くリュートのための作品を残した。また、前出のフックスのオペラ《コンスタンツァとフォルテッツァ》の上演にクヴァンツ、グラウン、ベンダらと共に参加していた。

[35] このベンダ、ヴァイス、ピゼンデルによる共演の逸話は、自伝には記されていない。

[36] 宮廷の移動は1737年12月に終了し、以後1740年国王に即位するまで、ラインスベルクがルピーンに代わって皇太子フリードリヒの宮廷となった。Vgl. Sabine Henze-Döhring, Friderich der Große: Musiker und Monarch, München 2012, S.28, 32-33.

[37] この協奏曲とは、ドレスデンに伝えられている筆写譜(D-Dl Mus.2981-O-2)の表紙に「1740年4月」の書き込みがあるヴァイオリン協奏曲ニ長調L:II-2ではないかと、ダグラス・リーは推測している(Lee, An Autobiography, S.30)。 作品番号については Douglas A. Lee, Franz Benda (1709-1786), a Thematic Catalogue of His Works, New York 1984, S.11-12を見よ。

[38] ここまでに紹介された3人のベンダの弟について、生没年を記しておく。ヨハン・ゲオルク・ベンダ(Johann Georg Benda, 1713-1752)、ゲオルク・アントン・ベンダ(Georg Anton Benda, 1722-1795)、ヨーゼフ・ベンダ(Joseph Benda 1724-1804)。

[39] フランツ・ローレンツによればこれは誤りで、正確にはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ(1745-1814)とルイーゼ・ヴィルヘルミーナ・アマーリア(1745-, 幼少期に死去)、カール・ヘルマン・ハインリヒ(1748-1836)とシャルロッテ・ヘンリッテ・ゾフィー(1748-1777)の2組が双子として生まれた(Lorenz, Franz Benda und Seine Nachkommen, Berlin 1967, S.80)。

[40] ここまでに紹介された子息について、それぞれの生没年を記しておく(詳細はLorenz, Franz Benda, S.80-110を見よ)。 ヴィルヘルミーネ・ルイーズ・ドロテア(Wilhelmine Louise Dorothea Benda, 1741-1798)、マリア・カロリーナ(Maria Caroline, 1742-1820)、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ(Friedrich Wilhelm Heinrich, 1745-1814)、カール・ヘルマン・ハインリヒ(Carl Hermann Heinrich, 1748-1836)、シャルロッテ・ヘンリッテ・ゾフィー(Charlotte Henritte Sophie, 1748-1777)、ベルンハルディーネ・ユリアーネ(Bernhardine Juliane, 1752-1783)。ちなみに、ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト(Johann Friedrich Reichardt, 1752-1814)が結婚したのは、6番目の娘である。

[41] ベンダが職務についた2年後の1735年のこと。

[42] プロイセンの宮廷楽団では、古参の奏者たちが新しく入ってきた奏者にレッスンを行い、その報酬が本給とは別に、宮廷の会計から支払われるという制度がとられていた。ベンダは、ヴァイオリンのレッスンのみならず、歌手へのレッスンを行ったことによっても俸給が支払われていたことが分かっている(Vgl. Mary Oleskiewicz, „The Court of Brandenburg-Prussia“, in: Music at German Courts, 1715-1760: Changing Artistic Priorities, hrsg. von Samantha Owens u.a., Woodbridge 2011, S.79-130: 103)。

[43] ベンダの自伝には、「少しのシンフォニア、15の協奏曲、80のソナタ、および相当数のカプリッチョ」とあり、ダグラス・リーによる作品カタログでは、10のシンフォニア、18の協奏曲、139のソナタ、67のカプリッチョ、更に2曲のトリオ・ソナタ、22の二重奏が真作として報告されている。

[44] ベンダは1751年、マリア・アントーニアのもとで演奏する機会があった。なお、1769年と翌1770年に彼女はポツダムを訪れ、フリードリヒらと共に室内楽を楽しんでいる(Lorenz, Franz Benda, S.33)。

[45] 誰のことを指しているのかは不明。

[46] 1770年から1772年にかけて行ったヨーロッパ旅行を通して、各地の音楽状況を旅行記の形で報告したチャールズ・バーニー(1726-1814)や、彼の旅行記の独訳を行ったクリストフ・ボーデによれば、ベンダの人柄はその高い地位や卓越した演奏技能にも関わらず、非常に謙虚であったという(Vgl. Johann Joachim Christoph Bode (Übs.), Carl Burney’s, der Musik Doctors Tagebuch seiner Musikalischen Reisen: Durch Böhmen, Sachsen, Brandenburg, Hamburg und Holland,Hamburg 1773 S.89-92)。一方、若い頃には傲慢な態度を示すこともあったようで、フリードリヒは姉のヴィルヘルミーネに、「音楽家たちは全くもって気難しく喧嘩好きです。その中でも、ベンダは最も堪え難い。それゆえに私は去年〔1736年〕、ベンダをあなたのところへ派遣しなかったのです。彼は楽団随一の反乱者で、私は彼を常に監視しておかなければなりません」と書き送っている(Lorenz, Franz Benda, S.19)。

[47] Giuseppe Tartini (1692-1770) 《悪魔のトリル》の名を持つヴァイオリン・ソナタでとりわけ有名なイタリアのヴァイオリニスト、作曲家。室内ソナタの基本順序である急—緩—急に代わり、タルティーニが採用した緩—急—急はベルリンの宮廷で好まれる様式となった。

[48] タルティーニとの比較はやや唐突の感が否めないが、ベンダとタルティーニの演奏様式・作品様式がかなり異なったものとして認識されていたことの証左として、このヒラーの記述は重要である。タルティーニについては、クヴァンツが1752 年に発表した『フルート奏法試論』の中で名指しと直接的な記述を避けながらも、音楽の基本である「歌唱」の原則に反する技巧偏重の作品を書く人物、として批判を展開している(Quantz, Versuch, S.312)。

[49] 註38を参照。

[50] 註40を参照。

[51] Franz Adam Veichtner (1741-1822) フランツ・ベンダの娘婿となったヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトが、彼に師事している(註40参照)。なお、N.N.は「某」の意味で、少なくとも互いに交流がある関係ではなかったということを意味しているだろう。

[52] Friedrich Wilhelm Rust (1739-1796) ヴァイヒトナーと同時期の1763年から1764年にかけてヴァイオリンをフランツ・ベンダに師事。同時に、クラヴィーアでエマヌエル・バッハにも師事した(Lorenz, Franz Benda, S.32.)。ルストによって写譜されたベンダ作品は現在、ブリュッセルの王立音楽院に所蔵されていることがわかっている。

[53] 1763年に書かれたベンダの自伝では、「少なくとも毎年10,000曲」伴奏したとなっている(Lorenz, „Autobiographie,“ S.154.)。ヒラーはおそらく、この記述を真に受けて単純に4倍したのだろう。なお、1784年に再びヒラーによって出版されたベンダの伝記では、50,000曲演奏したことになっている(Vgl. Johann Adam Hiller, „Benda, (Franz) Königlicher Preußischer Concertmeister“, in ders:  Lebensbeschreibungen berühmter Musikgelehrten und Tonkünstler neuerer Zeit, Leipzig 1784, S.30-53: 53)。

[54] 原文では1世となっているが誤りで、ポーランド王としてはアウグスト2世、ザクセン選帝侯としてはフリードリヒ・アウグスト1世(生没1670-1733)で、強王の別名で知られる。

[55] 以下に登場する頁及び行数は、原文の通りで本稿の頁及び行数とは対応していない。

bottom of page